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認知症の人の心の仕組みの解明や、認知症の人とのコミュニケーション技術に焦点を当てた「認知症情報学」の研究が、静岡大学の竹林洋一教授の下で進められています。さまざまな学問領域を超えて、人工知能学や情報学を駆使しながら、認知症になっても安心して暮らせる社会の実現をめざす竹林教授の研究室では、認知症を個性と捉え、認知症とともに生きるための数々のイノベーションが生み出されています!
プロフィール紹介
1974年慶應義塾大学工学部卒業、1980年東北大学大学院工学研究科博士課程修了(工学博士)。東芝総合研究所研究員、マサチューセッツ工科大学メディア研究所客員研究員、東芝研究開発センター知識メディアラボラトリー技監などを歴任し、現在は静岡大学大学院情報学研究科教授、デジタルセンセーション株式会社会長を兼務。音声認識、対話システム、人工知能の研究を経て、2012年より「認知症情報学」の研究に取り組んでいる。

認知症を個性と捉え 
認知症とともに生きる

いま、日本は世界に類を見ない勢いで高齢化が進んでいます。近い将来には認知症高齢者が急増し、大介護時代を迎えるのは必至です。

「日本は高齢化で世界を先導している『実験国家』であり、日本人は皆、人類未到の高齢社会を生きる『研究者』である」。これは長谷川敏彦先生(国立保健医療科学院政策科学部長、日本医科大学教授などを歴任)の言葉ですが、そんな日本においていま求められているのが、認知症を「治す」のではなく、認知症と「ともに生きる」ためのイノベーションだと私は考えています。

認知症は予防法ひとつにしても、さまざまな情報が氾濫しています。しかし、現在の医学では認知症の完全な予防法や治療法はありません。認知症の人やその家族を支えるためには、介護、医療現場はもちろん、行政機関、教育機関、地域社会、民間企業など、社会全体が連携しなければなりません。

年をとれば、誰もが認知症になる可能性があります。それならば、私たちがなすべきことは、認知症を「病気」と恐れるのではなく、「個性」と捉えることです。認知症になってもその人らしく、穏やかに暮らし続けられる環境を生み出すためにはどうすればいいのか。認知症の人が安心して暮らせるように、本人やその生活をアシストする技術を研究するのが「認知症情報学」です。
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認知症の人の言葉にならない訴えを
情報学・人工知能を用いて理解する

▲竹林研究室に所属する学生は現在15名。写真は石川翔吾助教(右奥)の下、学生が自主的に集まり、研究の進捗を確認するミーティングの様子
私の研究室では、物理学、数学、哲学、心理学、経済学といった既存の学問領域を超え、人工知能技術や情報学の技術を用いて、認知症の人の情動の理解、そして、認知症の人とのコミュニケーション技術に焦点を当てた研究を進めています。

例えば、認知症の人の「徘徊」を考えてみてください。私たちの目には徘徊と映る行為でも、認知症の人からすれば何らかの目的があるはずです。

私たちは主観で「徘徊」と判断してしまいますが、認知症の人の一見不可解に見える言葉にならない訴えは、その人の表情や動作、個性、状況など、さまざまな情報を判断して読み取らなければならない非常に困難な作業です。

そこで有効になってくるのが、情報学や人工知能の観点からのアプローチです。私たちが進めている研究のひとつは、認知症の人のさまざまなデータを収集して、人の複雑な心の動きや行動を客観的に理解するシステムの構築です。

これが可能になれば、認知症の人の意思を尊重できるのはもちろん、認知症ケアの向上を図ることも可能になると考えています。

介護の達人の暗黙知を
形式知化して共有する

▲「あおいけあ」は、神奈川県藤沢市で地域と密着した高齢者福祉サービスを提供している。写真は、小規模多機能型居宅介護施設「おたがいさん」で、利用者と交流する竹林研究室の学生(写真提供:竹林研究室)
先にお話したとおり、人の情動を理解することは簡単ではありませんが、介護の現場には「介護の達人」と呼べるような人がたくさんいます。

例えば、「HELPMAN JAPAN」にも登場している神奈川県の介護事業者「あおいけあ」の加藤忠相さんは、認知症の利用者の個性を尊重して、優れたサービスを提供しています。「あおいけあ」を訪問したとき、利用者が認知症の人とは思えないような豊かな表情で会話をし、楽しい時間を過ごしていることに私は驚きました。

介護の現場に限らず、医療現場や家庭にも、さまざまな人が培ってきた知識、技術、ノウハウがあります。しかし、そうした優れた知恵は属人化されていて、誰にでも分かるような形で表され、共有される機会はなかなかなかったといえるでしょう。

私たちの研究室では、暗黙知と呼べるそうした知恵を、多くの人に分かりやすく伝承するための「形式知化」の研究も進めています。

例を1つ挙げると、介護や医療の専門知識の情報を一般公開するWebサイト「認知症アシストフォーラム」の運営です。さまざまな専門家の知識や技術、ノウハウを映像コンテンツとして蓄積し、一般の方にも広く提供しています。カンファレンスを定期的に開催することでコンテンツの質を深化させ、人と人のネットワークを広げるような仕組みづくりも行っています。

ユマニチュードを科学的に体系化し
どんな人でも認知症ケアの達人に

研究室では、フランスのイブ・ジネスト氏らによって考案された「ユマニチュード」の有効性を科学的に評価する研究にも取り組んでいます。

ユマニチュードは認知症の人の症状改善をめざす看護・介護技術で、その技術を誰もが習得できる教育システムに体系化したことでも注目を集めています。

非常に優れた認知症ケアである一方で、イブ氏らの経験を基に確立されたシステムであるため、それが認知症の人にどんな影響を与えるのか、認知症の人にどんな接し方をすれば効果があるのか、といった細かい分析が必要です。

そこで、私たちはイブ氏やユマニチュードのインストラクターらと協力してその技術を分析・体系化し、映像を使って技術を学ぶツールの開発や、ユマニチュードの素晴らしさを科学的に証明するエビデンスの構築を行っているのです。研究が進めば、どんな人でも認知症ケアの達人となることができるはずです。

2015年には、来るべき高齢社会のデザインを考える研究会も発足します。世界でどの国も経験したことのない「未踏高齢社会」ともいうべき将来に向けて、こうした認知症情報学の技術を社会に展開することで、多様な個性や生きがいを尊重する人間社会を構築することが私たちの使命なのです。

◇研究室メンバーより◇
認知症の人をより深く理解するために

▲柴田健一さん(博士課程在学中)
私はタブレット型端末を使って、多様な認知症の人の状態を理解し、適切に支援するためのアセスメントツールを開発しています。認知症の検査では、医師が対話しながら問診票に記入を行いますが、その人の基本情報や検査結果などをタブレット型端末に集約し、医師や看護師、家族らが情報連携することで、家族への生活指導や医師への相談時にも効率的に活用できるものです。病院など、実際の現場で生の意見を聞きながら、研究を進められるところにやりがいを感じています。

薬が認知症の人にどんな影響を与えるのか

▲山本昇平さん(修士課程在学中)
精神科医と協力して認知症の人のカルテを解析し、さまざまな事例を収集しながら、認知症の人が服用する薬が人の精神症状に与える影響を解明したいと思っています。例えば、認知症の人が合併しやすいせん妄(錯覚や幻覚を引き起こす意識障害)と、BPSD(異常行動や幻覚、妄想など、認知症に伴う行動・心理症状)は、専門家でも見分けがつきにくいものの、それが発症するメカニズムは異なります。薬が与える影響を証明することができれば、的確な認知症ケアや、認知症の人の健康向上につなげられると考えています。

ユマニチュードの習熟度を客観的に判断

▲菊池拓也さん(修士課程在学中)
ユマニチュードの評価ツールを開発しています。現在、主に取り組んでいるのが、ユマニチュードのインストラクターの技術を映像で撮影してコンピュータで分析し、ユマニチュードを学ぶ人が正しい技術を習得しているかどうかを客観的に判断できるツールの開発です。例えば、「認知症の人の背中に優しく触る」の「触る」とは、「手を添える」程度なのか、それとも「さする」のかなど、細かい検証作業を行っています。

ユーザーに効果的なコンテンツを提供する

▲神谷直輝さん(博士課程在学中)
「認知症アシストフォーラム」で、ユーザーに対して効果的に情報を提供するための仕組みづくりに取り組んでいます。特に力を入れているのが、排泄ケアに関する知識の伝承です。排泄ケアについての映像コンテンツを視聴するときに、排泄に関連する事柄を視覚的に分かりやすく提示するインターフェースの開発を行っています。私の祖母が認知症であるため、一家族としてどういう情報や機能が欲しいのかを、自分自身でフィードバックしながら研究を進めています。

適切な情報がさまざまな人から
集約されるように

▲Aye Hnin Pwint Aungさん(修士課程在学中)
「認知症アシストフォーラム」の開発を担当しています。いま、Webサイトに上がっている映像コンテンツは、私たちが専門家に取材して制作したものですが、ゆくゆくはサイトを訪れた研究者や専門家、そして一般の方も自由にコンテンツを上げることができ、適切なところに適切な情報が集約されるような、ディレクション的な機能も充実させていきたいと考えています。
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文: 成田敏史(verb)
写真: 高橋定敬
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