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ヘルプマン

2014.08.28 UP

笑いが心の垣根を越えていく ケアリングクラウンでケア力を最大に

20代でお笑い芸人から介護の世界に転身した中野さん。今では、介護や看護の現場から、看護学校の講師、被災地支援のボランティアまで、さまざまなケアの領域で活動しています。ベースにあるのは、その人の持つ力を最大限に引き出すケアをしたいという思い。実現するための手段として行き着いたのが、“ケアリングクラウン”でした。「クラウン(ピエロ)の格好をしていると、ケアをする相手との心の垣根を取り払うことができるんです」。笑いを通じて人と人をつなぎ、理想のケアを追い求める中野さんを、広島に訪ねました。

「絶対に人を楽しませたい」。
揺るぎない信念と妥協しない姿勢が僕の原点

プロのお笑い芸人をめざしていました。初めて母と観た松竹新喜劇で、当時の大スター藤山寛美さんのお芝居に、2階席の奥に座るおじいちゃんおばあちゃんが腹をかかえて笑っていて、「すげえ、この人いったい何者なんや?」と衝撃を受けました。

それ以来、芸人に憧れて高校卒業後、上京。アルバイトをしながらお笑いコンビを組んだり、過激なパフォーマンスで世界的に有名な「電撃ネットワーク」の付き人を務めたりしました。彼らは本気で「中野、お前、ビルの3階から飛び降りて倒れても、パッとすぐに起き上がることはできるか?」と僕に相談するので、必死で実現する術を考えました。「プロとして絶対人を楽しませたい」という揺るぎない信念と、そのためには決して妥協しない姿勢。それはDNAとして今の自分にも生き続けています。

鳴かず飛ばずで芸人としての限界を感じ始めたころ、広島の父ががんで倒れて余命3カ月と宣告されました。お笑いの道を諦め、地元で働きながら、父を介護する母を手伝うことを決心しました。その当時、片まひのおじいさんを都営住宅の3階まで介助するボランティアをしていて、広島に帰る際にお別れの挨拶に行ったときのこと。「階段も上がれねえなんて、もう死にてえよ」と嘆いていたおじいちゃんが、別れ際に泣きながら「にいちゃん、ありがとう!」って手を振ってくれたんです。自分も涙がとまらなくなりました。そのときですね、「介護って面白いな」と思ったのは。ボランティアを紹介してくれた東京の社会福祉協議会の人からの「君は福祉の仕事に向いてるよ」というアドバイスもあって、帰郷後は広島の介護施設で働き始めました。世界的に有名なパフォーマンス集団「電撃ネットワーク」の付き人だったことも。写真は看護学生時代に再会したときのショット(左から2人目が中野さん)

阪神・淡路大震災で感じた無力感、
介護現場で感じた矛盾をバネに

施設で働き始めて約2カ月後の1995年1月、阪神・淡路大震災が発生しました。かつてない惨状を前に、自分にも何かできることはないか、役に立てないかという思いが募りました。父の容体も落ち着いたので、募集があったボランティア派遣に手を挙げました。勇んで現地を訪れましたが、テキパキと医療措置を行う医師や看護師に比べ、介護士としても半人前の自分は、家族を亡くした悲しみに呆然とする人たちに「大丈夫ですか」としか言えず、ただただ悔しい思いをしました。「知識や技術を身につけて、次にこんなことがあったら、この気持ちの借りを必ず返す」。そう決意しました。

広島に戻ると、さっそく老人ホームでの介護の仕事に取りかかりました。ところが当時の施設は「みんなベッドで穏やかに」という考え方で、寝たきりが当たり前。同じ屋根の下にいながら部屋にこもりきりで、お互いに名前も知りません。正直、「えっ? これはなぜ?」と思い、彼らがもっと生きがいが感じられる生活を送るにはどうしたらいいか、そのために自分ができることは何かと考えました。

思いついたのが、父の延命治療を研究する過程で知った園芸療法。部屋の中でのヒヤシンスの水耕栽培から始めて、翌年にはみんなで枕木の柵と近所の工事現場から分けてもらった土で菜園をつくり、トマトやキュウリの無農薬栽培に挑戦しました。お年寄りたちは、球根の根っこの長さを競い合うようになり、車いすに座ったままで水やりをして、花の美しさを比べ合い、相手を名前で呼び合ってけんかさえするようになりました。園芸療法の導入で、片マヒのおじいちゃんも毎日水やりするようになった

園芸療法や独自の看護学習法など
トライアルをかたちにして広めていく

園芸療法で育てた花や野菜を施設や家族の人に販売すると、年間数万円の売り上げになりました。「今年は○万円儲けよう」とか、「もっと甘いトマトをつくろう」って夢や目標が持てると、利用者の生活への意欲が大きく違ってきますし、それを見た介護士も介護がより面白くなります。そんなふうに、僕はお年寄りが夢を取り戻せるような介護士になりたいし、同じような思いを持ち、行動をする介護士が一人でも増えたらいいなと考えています。

介護士を続けるうちに、老いに対して生理学や薬学などの知識をもとに、最適な対処・指示を行う看護師に興味を持つようになり、看護師の資格をめざすことを決意しました。午前中は介護士として老人ホームで働き、午後は看護学校、帰宅後はタクシー乗務のアルバイトという生活が続きました。国家試験に合格するには、いくつもの領域にわたる膨大な知識を体系的に覚える必要があります。焦燥感に駆られ、不安な日々が続きました。

そんなとき、ある漫画に紹介されているメモリーツリーを用いた勉強法を知りました。これは簡単に言うと、最重要項目を太い幹に見立てて、関連項目を枝や葉として描き込んで覚えていくやり方。半信半疑で続けた結果、模試で上位10位以内の常連になり、無事国家試験にも合格しました。その後、看護師として働きながら、このときの成功体験を自分なりに体系化し、看護学校の非常勤講師としてそれを紹介するようになりました。看護師をめざす学生が挫折せずに前に進めるよう、自分が役に立てることは何かと考えた結果です。表情を診たり、生活の様子を伺いながらバイタルチェック

ケアリングクラウンが教えてくれた
目の前の人が「前に進みたい」と思えるケア

30代半ばで看護師試験にどうにか合格して、看護師の仕事を始めたころ、広島でケアリングクラウンの先駆的な活動をする吉長孝衛さんと出会いました。ケアリングクラウン(Careing Clown)は、病院・老人ホーム・被災地などで活動する、主に心のケアをする道化師のこと。始めた当時、ピエロの格好である病院の筋ジストロフィーの患者さんを慰問に伺う機会がありました。

その方は指1本が動くだけなのですが、自分に興味を持ってくれて何とか会話が成立し、その後も半年ほどメールでやり取りを続けていました。自分は看護師としては駆け出しだったので、「どんな看護をしてもらいたい?」とある日、その方に尋ねてみました。答えは「ベテランでもいい加減な人もいる。それよりも経験不足で不器用でも『すいません』って言いながら、一生懸命、汗水たらしてやってくれる新人のほうがありがたい」。その言葉で、ケアとは提供してあげるものではなく、提供させていただいているものなのだと、あらためて気付かされました。

ケアリングクラウンでは、子どもたちにバルーンアートで作った風船の犬などをプレゼントしたりします。あるとき、一人の子どもに風船を渡しても無言だったので、「ありがとうは?」とついその子に言っている自分がいました。それを聞いていた吉長さんに後で、「君が作った下手くそな風船をもらってくれたんだ。もらってくれてありがとうだろ!」と怒鳴られました。自分本位ではいけない。目の前の人に「うれしい」「楽しい」「前に進みたい」と思ってもらえたとき、初めてそれが自分にも返ってくる。それが本当のケアなのだと思います。介護士にも栄養学に興味を持ってもらい、日頃のケアに活かしてもらうため、糖尿病のお年寄りの健康に配慮した低カロリーメニューを考え、自ら厨房にも立つ

人と人を笑いでつなぎ、
その人の力を最大限引き出す

2014年になってようやく阪神・淡路大震災のときの借りを返す機会が訪れました。2011年に東日本大震災がありましたが、阪神のときに3年ぐらいで風化していった経験があったので、手伝うなら3年後だと考えていました。知り合いを通じて広島市内の中高生で組織する「高校生災害復興支援ボランティア派遣隊」の活動を知り、ケアリングクラウンとして、そのお手伝いをしています。

南相馬市などの被災地に高校生らと一緒に行って、仮設住宅の清掃活動や花壇の整備、被災家屋の復旧作業などを行うほか、集会所などでケアリングクラウンのパフォーマンスをして笑いを届けます。ミュージシャンの慰問は多いのですが、笑いとボランティアを結びつけた人はめずらしいそうです。活動資金を集めるため、広島市内の街頭やお祭りでの募金活動を高校生が行う際、自分もピエロ姿でパフォーマンスしたりすることで、より多くの募金に貢献できればと思います。

子どもたちの中には楽器が得意な子もいるので一緒にパフォーマンスをしたりして、仮設住宅の高齢者の方々と交流を深める楽しさを共有できるのもうれしい。ケアリングクラウンは人と人を笑いでつなぎ、コミュニケーションのハードルを下げ、目の前の人の力を引き出すことができる。そんなケアリングクラウンや福祉の世界に魅力を感じて、子どもたちもいつか参加してくれたらうれしいですね。福島で集会所となっているお寺の清掃の準備をしているところ高校生に混じって、活動準備資金を集めるための街頭募金活動に参加

ケアリングクラウン“ラバルプー”は
ケアの力を引き出すパートナー

介護、看護、看護学校の非常勤講師にボランティア――。お前は一体何者なんだって言われることもありますが、単なる知識じゃなくて、自分が体験し、壁を乗り越えるために追求したことや、いろんな人たちから体で教わってきたことを、それぞれのケアの現場で伝えていくことが僕の目標。

園芸療法に挑戦したときも、当初、周囲からは異端児のような扱いを受けたりしたんですが、とにかく突き進んで試行錯誤を繰り返していると、事態がいい方向に変わる瞬間があって、そこから誰かが手を差し伸べてくれたりして道がぱっと開けてくる。その体験を人にも伝えたいんです。

いまは笑いやコミュニケーションで、一般との垣根を取っ払うことができるケアリングクラウンを、介護や看護、教育や被災地復興支援などケア全般に生かしていくことが、自分の活動の中心です。活動を理解してくれる福祉施設や病院をどんどん増やして、笑いを介護や看護の現場にもっと生かしていきたい。

残念ながらケアリングクラウンというネーミングは、まだ日本ではなじみが薄いので、今は自称ピエロ先生で、愛称はラバルプーで通しています。笑いは愛(ラブ)で、愛のつまったバルーンを運ぶプーさん。ラバルプーは誰かの役に立つため、誰かを楽しませるためなら、広島、大阪、東京、福島、どこへでも出かけていきます。ケアリングクラウンの仲間とともに(手前中央が中野さん)2013年には、看護師の国家試験を乗り越えるために磨いた独自の学習法を『ラバルプーの電撃ネットワーク術』(医学評論社)という本にまとめた
書籍の紹介はこちらhttp://www.igakuhyoronsha.co.jp/2000/?ISBN=978-4-87212-207-8

【文: 高山淳 写真: 濱野哲也】

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