ヘルプマン
2019.03.12 UP
神奈川県藤沢市の鵠沼海岸にあるカフェレストラン「かめキッチン」。ここでは、デイサービス「カルチャースクール亀吉」の利用者たちが調理したランチを提供している。他に、天然酵母のパンを販売する「パン遊房亀吉」や、さまざまな習い事を楽しめるコミュニティスペースもあり、地域の人々の触れ合いの場となっている。高齢者だけでなく、親子連れや若者なども訪れるこの施設を手掛けるのは、NPO法人シニアライフセラピー研究所だ。「ボランタリー事業」と「収益事業」を両立させ、現在、介護をはじめ、障害福祉、子育ち支援、傾聴ボランティア育成など、地域密着型の40事業(2019年2月現在)を展開している。同法人の理事長、鈴木しげさんは、31歳のとき、不慮の事故で左目を失明しており、常にサングラスをかけているが、その明るい笑顔は、施設全体に漂う朗らかな空気そのままだ。介護の領域を超え、地域の誰もが楽しめる場を生み出したその歩みと、今後の展開についてお話を伺った。
留学先でボランティアを経験。
帰国後、福祉の世界に踏み出す
鈴木さんが初めて福祉の世界に触れたのは、大学時代のことだった。アメリカ留学をしたとき、障がいのある子どもたちと触れ合うボランティアに参加し、一緒に遊んだり、サッカーチームを立ち上げるなどしたという。
「現地で大きな人種の壁を感じましたが、障がい児童たちとは人種の違いを超えて一緒にダンスパーティを楽しんだり、ハロウィンパーティなども開催しました。子どもたちと触れ合う中で、自分自身を認めてもらえたような感覚になりましたね。日本に戻ったのは、阪神・淡路大震災の直後。“ボランティア元年”ともいわれたほど、多くのボランティア団体が立ち上げられた時期です。僕もそこに参加しましたが、アメリカとは違って、楽しさよりも、労働力的に取り組むプログラムばかり。『それなら仕事として働いたほうがいい』と考え、ホームヘルパーになり、心理学を学ぶために大学にも編入しました」
当時は、介護保険制度も介護の教育・資格制度もなく、現場では、高齢者とのコミュニケーションよりも「措置」が優先される時代だったという。
「近所の世話焼きの人がヘルパーの仕事をしているという印象でしたね。一方、ご利用者さんには明治時代生まれの人も多く、皆さん、個々の哲学や意思をはっきりと持っておられました。『世話をされること』を受け入れてもらえないケースも多い中、僕は大学で学んだカウンセリング手法を使いながら、傾聴や声掛けに配慮していたためか、ご利用者さんたちも心を開いてくれたんです。それぞれの気骨ある生き方に触れ、多くを学ぶことができました」
ヘルパー以外にも、工事現場からホテルまでいろいろバイトを経験した結果、「福祉の世界は学びが多い」と感じたという。鈴木さんは、大学卒業後、25歳で介護老人保険施設を営む企業に就職を決めた。
▲10品目、60食以上を提供するかめキッチンの厨房の様子。調理をするのは、デイサービスの利用者とボランティアの人々だ。認知症患者も厨房に立った瞬間、楽しげにテキパキと働き始める
▲かめキッチンの厨房に入る前に、役割分担や段取りについて打ち合わせる。職員はあくまで進行のサポート役だ
介護職員時代に自ら現場を改革。
赤字施設の黒字化などで経営を経験
鈴木さんは、介護老人保険施設で介護職として働くことになった。しかし、利用者の気持ちを尊重しない現場に憤りを感じ、入職から1年も経たないうちに改革に乗り出す。
「ご利用者さんがモノのように扱われていると感じて。スタッフの教育担当を自ら買って出て、身体拘束ゼロや個別ケアなどの施策を提案していきました。休日には、都内のあちこちの他施設でボランティア活動として、心のケアを中心に行っていたら、やがて、雑誌で“カリスマ介護士”として紹介されて。それを見た方に『うちの施設を任せたい』と声を掛けられたんです」
そこで鈴木さんは、グループホームやデイサービス、居宅サービスを手掛ける企業に入職。任されたのは、赤字経営で運営が困難となった施設だった。
「最初は騙されたと感じましたが(笑)、いろいろチャレンジできましたね。改革を続けた半年後、黒字化に成功し、以降、グループ内の赤字施設に入っては黒字化する活動を続けていきました。やがて、管理職の教育を任されたり、グループホームを立ち上げたり、ホームレスの人が多い地域で生活保護を受けている方も入居できる施設やレストラン付きのデイサービスを作ったり。大きな予算と決裁権を任された3年間で、経営について一通り経験することができました」
▲施設の入り口には、「パン遊房亀吉」が。パンを作り、販売するのは、就労支援を受けている障がい者とボランティアの人々だ。ふるさと納税サイト「さとふる」のパン部門で全国第1位を獲得したことも
▲施設内のコミュニティスペースで行われている太極拳講座の様子。全部で50講座あり、ヨガ、胎教、ベビーマッサージ、子ども向けの知育教育や英会話教室などその内容はさまざまだ
目の前の人の要望に応えていくうちに、
さまざまな事業や地域連携の仕組みが生まれた
転機は、30歳。一人でのんびりケアマネジャーをやりたいと考え、地元・神奈川県藤沢市でNPO法人シニアライフセラピー研究所を立ち上げた。団体名は、「シニアライフ(シニアの人生)」を活用した「セラピー(療法)」を研究する場を意味する。
「高齢社会や介護についての問題が叫ばれる社会こそが問題だと思い、シニアの人生経験や知恵を活用して、世の中をよくしていこうと考えました。スタートする前、地域で介護福祉関連の施設を営む全事業所を回りましたが、このとき、『話し相手や居場所が欲しい』という多くの声を聞いて。そこで、実家の空いている部屋を活用し、誰でも訪問できる『憩いのサロン亀吉』を作りました」
サロンには、近所で一人暮らしをする高齢者や認知症の方など、多くの人々が訪れるようになる。
「人が集まると、それぞれ自分の思いを語り始めるもの。僕は、目の前の人たちを幸せにしたいと考えていたので、その思いに耳を傾け、どんどん実現していきました。例えば、移送サービスを始めたのは、『死ぬまでに富士山に出掛けたい』という声に応えるため。ホームヘルプ事業を始めたのも、脚を切断する手術を受け、『病院から帰っても生活できない』と困っている方がいたから。このときは、アパート探しから、働いていない息子さんの就職先探しまで行いましたし、お金を掛けずに24時間支援を受けられるよう、ご近所の方々に声をかけてヘルパーやボランティアを探しました」
また、一人暮らしをする認知症患者のために、近所で食事提供ができる人やヘルパーの資格を持つ人、ボランティアで支援してくれる人を探し、島内で連携してもらう仕組みを作ったという。
「このころから、『最初から介護の専門職を頼るより、ご近所さんを巻き込んで、地域で連携していく形を作る方がいい』と思うようになりました。ずっと支えていけるし、地域に同じような人が出てきた時、同じ動きができる。お金をもらう介護のプロは“仕事”でやっているから“案件”ありき、“依頼”ありき、“お金”ありきになります。一方、僕らの活動は、“仕事”ではなく、“お互い様”の気持ちでやっているので、『この人のために必要なことは何か』からスタートし、そこから人や場所、かかるお金について考えて実現できる方法を生み出します」
▲「精神障がいの治療から退院した人に不動産を紹介するために、宅建業免許を取得し、居住支援事業もスタートした」と話す鈴木さん。NPO団体で不動産事業を手掛けるのは首都圏では初だった
収益事業の売り上げ5%をボランタリー事業に充当。
「働く×リハビリ」を実現し、地域の人も巻き込む
現在、ボランタリー事業として4部門、収益事業として3部門、合計40事業を展開しているが、「全ては、ボランタリー事業ありき」だと、鈴木さんは話す。
「そもそも、僕ががんばって事業を立ち上げたのではなく、集まってくる人たちの『こんなことをやりたい』を実現していくうちに、いまの形になったんです。収益事業はボランタリー事業に必要なお金を稼ぐためにやっているようなもの。収益事業の売り上げの5%をボランタリー事業に充て、助成金をもらわずに運営しています。『何かをやりたい』という人が現れたら支援しますし、自然に『そこに携わりたい』という人が出てくる。みんなの自主性を生かし、それぞれが輝けるような仕組みを目指しています」
ボランタリー事業の1つ、「傾聴部門」では、傾聴ボランティア養成講座や、講師派遣などを行っている。鈴木さんは20歳でヘルパーを経験したときから現在まで、「本人の声をきちんと聴くこと」を徹底している。
「支援をするのに、“支援を受ける本人”の声を聴かないのはあり得ません。当法人では専門職だけが集まって、本人抜きに行う会議には出席しないことに決めています。傾聴ボランティアを全国的に養成し続けている意義は、ここにあります。ご利用者さんの声をきちんと聴いてくれる人を増やしていきたいのです」
2007年には、デイサービス「カルチャースクール亀吉」を作った。地域包括センターができたばかりのころ、鈴木さんは世間にまだなかった予防向けのデイサービスを作ろうと考え、サロンに集まった高齢者に何がしたいかを聞いたという。
「ゴルフや麻雀、調理、茶道、株の売買、お酒、さらにはボクシングまで、いろんな意見が出てきて(笑)。行政からは『そんな施設、とんでもない』と反対されましたが、交渉を続けた結果、通してくれました。施設ができると、ご近所に住む高齢者やご家族から、『利用したい』という直接の連絡をたくさんいただきましたね」
カルチャースクール亀吉では、設立当初から「料理リハビリ」を行ってきたという。約10年後の2018年にオープンしたカフェレストラン「かめキッチン」では、このデイサービスの利用者が厨房に入って調理をしており、「働く×リハビリ」を実現した。
「ご利用者さんには、かめキッチンの売り上げの一部を、労働の対価としてお支払いしています。有償ボランティアの謝金という形式です」
運営面でも、利用者の自主性を尊重している。
「最初は職員も厨房に入っていましたが、いない方が皆さん自主的に動くことがわかりました。なので、いまは職員が朝の打ち合わせで担当を割り振り、調理中は厨房の外から全体を見る。厨房内はご利用者さんとボランティアスタッフのみで回しています」
ボランティアで働いた人たちには、施設内で利用できる通貨を配り、それを使って食事やパンの購入、教室への参加ができる仕組みを作っている。
「調理リハビリでは、要介護度4だった認知症のご利用者さんが、要支援1まで機能回復したケースもあります。その後はボランティアとして働き、もらった通貨でパンを買ったり、ヨガ教室に参加されていますよ。他にも、リハビリで手の機能を回復した方が、コミュニティスペースでそば打ちの先生をしていますね」
さらに、鵠沼エリアの地域の人々を巻き込んでいくために、コミュニティサークル『亀吉鵠楽舞』も作った。現在、老若男女問わず、1,300名もの人々が会員になっているという。年会費は1,200円だ。
「会員はパンを安く購入できる仕組みになっているので、そこが入り口になっています。施設に来た人には『得意なことはある?』『何かやりたいことや興味があることは?』と声を掛け、どんどん巻き込んでいきます(笑)。現在、このサークルの会員さんとして、ボランティアの方が350名、子ども会の方が210名参加しており、次世代の自治会の形を共創中です」
▲施設の中央には、食事や会話を楽しめるスペースがあり、親子向けのイベントなども行っている。ライブステージ「亀屋音樂堂」にプロのミュージシャンを呼び、入場料を設定する形で夜に楽しめるサービスも実現
職員なしで回る仕組みを目指し、
「永続的に発展する地域文化」を作る
鈴木さんは、利用者やボランティアの自主性を大事にし、「自分たちのデイサービスや地域を、自分たちでよくしていこう」という方針を基本としている。
「職員が主導する形では、そこに頼ってしまいますし、『やらされていること』になってしまいます。みんなが“自分ごと”として考えていけるようにするために、僕らはあくまでサポートするのみで、役割分担の決定や進め方についての話し合いなどは、全て本人たちに任せていく。すると、自らどんどん提案してくれるようになりますし、友人や知人をボランティアに誘ってくれたり、家族や近所の人をイベントに連れて来てくれたりして、さらに地域のつながりが広がっていきました」
こうした活動を続けていくパワーの源とは一体何なのだろうか。鈴木さんは、ヘルパー時代に明治生まれの高齢者の方と接し、彼らから学んだことが大きく影響していると話す。
「人生の大先輩たちから、『勉強は人のため、働くのも人のため。命は儚いものだから、世の中のために働く』という話を聞きました。自分もそうなりたいと思ったし、息子や孫の世代まで、それを伝えていくことが大事だと。例えば、認知症が進んでいるおじいちゃんをお孫さんが見たとき、悪いイメージを持つかもしれない。けれど、もしもここで働いたなら、そのおじいちゃんも、『俺の料理はうまいだろう?』と胸を張ることができ、二人の関係性はきっと変わるんじゃないかと。ご本人にとって、“最期までいい人生”としてもらうためにも、輝きながら生涯を終えられるようにサポートしたいし、“いい死に様”を見せてもらえたら、家族もそこから多くを学ぶことができるはずだと思っています」
また、「福祉」や「地域福祉」のあり方について次のように語ってくれた。
「福祉とは、介護をすることではなく、人を輝かせ、幸せにし、幸せな空間を共創していくこと。障害や認知症を持ったままでも、課題を抱えたままでも、その方が幸せになるような地域を創っていくことが地域福祉です。地域福祉では、課題となる相手を変えるのではなく、相手を理解して自分たちが変わる営みが大切なのです」
今後の目標は、「脱・苦行」であり、2030年を目がけて、「永続的に発展する地域づくり」の実現に向かうという。
「僕らは、やっていることの全てにおいて、『楽しい、かっこいい、美しい、便利、お得』ということを大切にしています。入り口はそうでないと、人は惹きつけられないし、『福祉はこうあるべき』と正論を並べるより、おいしいパンを入り口に並べた方がみんな集まってくれる。そもそもアメリカで体験したボランティアとは楽しいことばかり。3Kと呼ばれる福祉のあり方がおかしいのです。『辛いこと、苦しいことはやめて、ラクして楽しみ、がんばらないこと』を掲げ、最終的には職員がいなくても全てが回る仕組みを作っていきたいです」
まずは2025年までに、介護給付に頼らない『脱・介護保険』を目指し、より自由に事業を展開していく計画だ。「ただの事業ではなく、永続的に発展していける次世代に誇れる地域文化を作っていきたい」。そう語る鈴木さんの笑顔に、気負いは一切ない。
【文: 上野真理子 写真: 阪巻正志】