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「読み・書き・計算」を通じて脳を活性化し、認知症高齢者のクオリティ・オブ・ライフの向上やその人らしさを取り戻すことをめざす「くもん学習療法」。学習を始めた高齢者には、笑顔が戻ったり、やる気が出るなどの変化が生まれるといいます。2013年10月現在、全国1,572カ所の介護施設で導入され、利用者は1万2,500名を超えている学習療法とはどんなものなのか。くもん学習療法センターの開発・情報チームリーダーを務める大野好之さんに伺いました。
プロフィール紹介
名古屋大学工学部機械科に入学後、同大学文学部哲学科に転部。大学卒業後は日本公文教育研究会に入社し、子ども用の教材制作を経て、2002年からくもん学習療法センターに所属。開発・情報部の開発・情報チームリーダーとして、学習療法の教材開発に携わる。

簡単な読み・書き・計算が
高齢者の笑顔を取り戻す

くもん学習療法とは、コミュニケーションをとりながら、簡単な単語や文章の音読、計算を行うことで、高齢者の認知機能やコミュニケーション能力などの維持・改善をめざすものです。学習を始めてしばらくすると、高齢者の方に笑顔が戻ったり、自ら進んで着替えをするなど、やる気を引き出す効果もあります。

コミュニケーションがうまくいかない、最近の出来事を忘れてしまうといった認知症の症状は、脳の中にある前頭前野と呼ばれる領域が関わっています。「思考する」「コミュニケーションする」「記憶をコントロールする」「やる気を出す」など、人間を人間たらしめている高次の機能を、前頭前野がつかさどっているのです。

この前頭前野は、難しい計算をしているときや一生懸命ものを考えているときには、皆さんが想像されるほど活性化しません。しかし、簡単な計算や文章を音読しているときには、前頭前野を含めた脳全体が活性化します。そこに注目したのがこの療法なのです。
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二人のキーパーソンの出会いから
学習療法はスタートした

画像/学習療法の様子(くもん学習療法センター提供)
くもん学習療法の誕生には、二人のキーパーソンが関わっています。一人は脳科学が専門の川島隆太教授(東北大学加齢医学研究所)。もう一人は、福岡県の特別養護老人ホーム「永寿園」の園長である山崎律美さんです。

川島教授は、脳のどの部分にどんな機能があるのかというブレインイメージング研究における日本の第一人者です。1998年より公文式と共同で、障害児の前頭前野を活性化させる学習方法の研究を行っています。

山崎さんは障害児入所施設で指導員をしていた1980年代から、知的障害児の可能性を伸ばすために、公文式の学習を取り入れていました。自分のレベルに合わせてマイペースで勉強を進められる公文式をしてもらうと、学校の宿題が苦手だったり、一律な教え方の授業が合わない子どもたちがとても喜んだそうです。

子どもの表情が明るくなり、施設のいろいろな日常業務のお手伝いも進んでするようになったといいます。山崎さんは障害児入所施設のあと、老人ホームに移ってからも、入所者向けに公文式のドリルを使ったケアを試みていました。

その取り組みに川島教授が興味を持たれて、「脳を活性化させる学習方法を障害児だけでなく、認知症の症状の進行抑制にも生かすことができないか」という仮説を立てて始まった共同研究(※)が、「くもん学習療法」に発展していくのです。

※ 「前頭前野機能発達・改善システムの開発研究」。科学技術振興機構の国家研究プロジェクトで、代表研究者を川島教授が務め、共同研究機関として、公文教育研究会や山崎氏が代表を務める道海永寿会などが参画している

世界に前例のない
高齢者向けの教材づくり

画像/「読み・書き」の教材。昭和の暮らしや童謡・唱歌など、高齢者になじみ深い題材を取り上げている
研究は、永寿園に入所している47名の認知症高齢者に、子ども向けの公文式ドリルを解いてもらうことから始まりました。

この研究は参加者にも好評で、学習する部屋の前に行列ができるほどの人気がありました。また、効果もすぐに出ましたね。一日中パジャマで過ごしていた人が髪の毛を整えてお化粧をしようとしたり、介護スタッフを「おねえちゃん」と読んでいた人が名前を覚えようとしたり。10年間車いすの生活だった方が「歩けるようになりたい」と言い出して、リハビリを経て四点杖で歩けるようになったこともありました。

学習療法を始めた数カ月後には、入所者同士の会話も活発になり、施設内に笑顔が増え、社会性も生まれてきました。学習を通じて脳が活性化することで、生きる意欲や身体的な自立を促し、その人らしさを取り戻すことにつながったのです。

しかし、子ども用の教材を使っていると、うまくいかないこともありました。通常のドリルには子どもの学力をアップさせるため、それまでに学んできたことを応用して、類推しながら解く問題が仕込んであります。しかし、認知症高齢者はそうした問題につまずいてしまうのです。

そこで、子ども用教材の開発を担当していた私をはじめ、3名のチームで現場に行き、読める文字の大きさや負担のない文章量、重度の認知症高齢者の方ができることなどを、手探りでモニターしていきました。

世界に前例のない教材づくりで、一番初めに作った教材は600ページにもなりました。それも1年後には作り直し、これまでに5回改訂しています。現在では、同じ認知症でも、重度、中度、軽度と、一人ひとりの状態に合わせて18段階の課題レベルを設けています。

入所者の表情・意欲・コミュニケーションが
変わり、介護スタッフのケアにも変化が

画像/学習療法の様子(くもん学習療法センター提供)
研究を進める中で興味深かったのが、学習療法がスタッフと入所者のコミュニケーションツールになったことです。

リラックスしながら人とコミュニケーションをとることは、脳の活性化につながることが科学的に実証されています。ですから、簡単な文章を音読する教材を、昭和の歴史や情景、仕事のことなどを題材に作り直して、昔のことを思い出し、そこから話を広げていくきっかけになるようにしたのです。

スタッフの姿勢にも変化が現れました。学習中に入所者が笑顔になってくれたら、普段の生活の中でも生き生きとしてほしいと思いますよね? そのためにはどうすればいいのかというふうに、ケアを工夫するようになってきたのです。

学習の時間は、相手の残存機能(※)をしっかり観察する機会にもなりました。スタッフの介助がなければ食事もできない全介助のおばあちゃんが、鉛筆を握っていることに気づく。それならばスプーンも持てるのではないかというふうに、一人ひとりの可能性を引き出すケアにつながっていったのです。

介護スタッフの方からは、「コミュニケーションの大切さを再確認した」「モチベーションがアップした」というお話をたくさんいただきました。

※ 身体に障害があっても活用することができる、残された機能

全国に広がる学習療法
アメリカでトライアルもスタート

2003年からは仙台、岐阜、奈良などの施設でも検証を行い、いまでは全国1,500以上の施設で学習療法が取り入れられるまでに広がりました。

認知症予防をめざす「くもん脳の健康教室」は、全国233の地方自治体で、437教室開講しています。また、学習療法の正しい知識と技術を伝えるための、学習療法士認定研修会の実施にも力を入れているところです。

学習療法のことを知ったアメリカの介護施設からオファーがあり、2011年からは現地でもトライアルが始まっています。125年の歴史があり、アメリカのパーソン・センタード・ケア(※)を代表する施設です。

まず、私とイギリス人社員でイギリス人用の英語教材を作り、それをKumon North Americaの教材制作チームと連携し、アメリカ人向けに改良を重ねていきました。

リーディングのスピードは速いものの、ライティングが苦手な人が多いとか、人種や宗教に関係なく、平均的なアメリカ人なら誰でも楽しめるような教材にしようと調整を重ねているところです。最近では、ヨーロッパ圏の国々や韓国、台湾からも関心が高まっていますね。

※ 認知症患者を一人の人間として尊重し、“人中心”のケアを重視した認知症ケアの考え方

人類共通の
文化になることをめざして

教材をゼロから作ってきた私としては、こうした展開には感慨深いものがあります。もともと身体と心の問題や、人間らしさ、人の幸せについて興味があり、認知症高齢者がその人らしく生きていくためにはどうすればいいのかということに非常に興味があるんです。

施設を訪ねたとき、初めは警戒していた高齢者の方が、学習を進めていくうちに、次第に笑顔を見せてくれるようになると、本当にうれしい。アメリカの介護スタッフからは、「認知症患者の人生を変えることができる素晴らしい宝物を日本からもらった」と言っていただきました。

学習療法は日本発の試みです。認知症になった方が学習を通じて自分らしさを取り戻し、自分らしく生を全うする。そんな社会を日本で作り出し、人類共通の文化になることをめざしていきたいですね。
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文: 成田敏史(verb)
写真: 高橋定敬
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