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ヘルプマン

2018.04.23 UP

「ノーリフト®」の理念をケアの現場に普及し、腰痛予防や、利用者の満足度向上を目指す

介護や看護に従事する人にとって、腰痛は大きな悩みのひとつだ。そんな中、腰痛予防として、さらにケアの質を高めるものとして注目されているのが、「ノーリフト®」。人力のみの移乗を禁止し、適切な福祉用具を活用しようという考え方だ。日本では、一般社団法人日本ノーリフト協会がその普及に努めている。協会を立ち上げ、現在代表理事をつとめる保田淳子さんは、オーストラリアで語学留学していたとき、訪問した病院や介護施設で初めてノーリフト®を知ったという。留学後も、帰国せず大学の看護学部に進み、看護師免許を取得。大学院では、労働マネジメントやノーリフト®について徹底的に学んだ。そんな保田さんに、日本での協会設立の経緯や、オーストラリアでの体験、現在の活動などを伺った。

語学留学で訪れたオーストラリアで、
看護師の意識や労働環境に驚き大学に進学

高校卒業後、会社員を経て医療事務の仕事に従事していた保田さん。婚約者を膠原病で亡くしたことから、いったん医療の現場を離れる。1年後、次に勤めた病院で、「大切な人を守るためには医療の知識が必要」と感じていたこともあり、医療事務として働きながら准看護師の資格を取得。その後、看護学校に通って看護師の資格を取得した。3年間、透析看護師として働いた後、「JICAや国境なき医師団で活動したい」と、オーストラリアへ語学留学に行く決意をする。

「10年後のキャリアアップを考えたとき、先が見えるような気がして、そのレールに乗りたくないなと思ったんです。しかも32歳という人生の分岐点、貯めたお金を1人暮らしのマンションの頭金に使うのか、何に使うのか悩んでいた時期でした。前からインドやアフリカなど発展途上国で看護師として働きたいと思っていたし、そのためには語学習得が不可欠なので、思い切って語学留学へ。オーストラリアを選んだ理由は、旅行したときに英語がしゃべれない私にもフレンドリーに話しかけてくれた印象が強くて、一度は住んでみたい国だったからです」

2003年、メルボルンで語学勉強に励みながら、時間があるときには、病院や介護施設に見学に行ったという。

「訪問先の看護師や介護職員の方々が、『プロとして』という言葉をよく使うのが印象的でした。自分も透析看護師のプロとしてやってきたつもりでしたが、まったく違う感覚。このプロ意識の違いは、看護教育の過程に要因があるのではと思い、それなら看護大学で勉強しようと、5カ月の予定だった語学留学を延長しました。その後2年間、平日は語学学校に通い、土日は介護老人施設でケアアシスタントのアルバイトをして働きながら、大学編入のために必要な語学力を習得していきました」

2005年、念願だった南オーストラリア州フリンダース大学(アデレード)の看護学部に編入。勉強と実習を繰り返し、オーストラリア看護師免許取得。大学院に進み、医療マネジメントを専攻する。

▲「アルバイトや大学での実習経験から、オーストラリアの介護・看護業界は、組織や勤務体系、精神的ケア、給料面など、いろんな面で働きやすい環境が整っていることに驚きました。また、働く環境のマネジメントに興味を持ち、大学院まで進みました」と保田さん

ノーリフト®を実践する現場経験から
ケアに対する新たな気付きや発見が

保田さんが「ノーリフティングポリシー」を知ったのは、語学学校に通いながら2年間アルバイトした介護老人施設だった。

「最初に見たのは、語学学校時代に見学した病院。『患者さんを荷物みたいに運んでいる』と違和感を持ちました。でも、アルバイト先の施設で『利用者の移乗は、腰痛予防として必ずリフトなどの福祉用具を使う』と教わり、ノーリフティングポリシーに基づいたトレーニングを受けて、実際にリフトやスタンディングマシーンを使ってみました。当初は『手を使わず用具を使うのは非人間的だ』と反感を覚えたものですが、実際にやってみると移動介助に苦痛がなく、慣れてくると着替えやシーツ交換など通常のケアと同じ感覚になってきました。ただ、利用者の方がどう感じているのか不安だったので、直接聞いてみると、『楽でいいわよ』『抱えてもらって相手がケガをしたり、腰を痛める方が怖い』という反応でした。経験を重ねるうち、『患者や利用者の安全』と『看護師や介護職員の健康』の双方のためにノーリフティングポリシーが普及されているのだと身をもって体感しました」

また、オーストラリアの看護師のプロ意識の高さに驚く日々。

「患者さんのために『気を利かせる』『がんばる』ことが大切だと思っていました。でも、それは、自己満足にすぎないと痛感したんです。例えば、床に落ちたティッシュの箱を、気を利かせて患者の近くのテーブルに置いたとします。すると、『あなたはいま、3つの機会を逃した』と指摘されます。1つ目は、拾えますか? と声を掛ければ、患者が動けるかどうか確認できた。2つ目は、拾ったときに痛みはありますか? と聞けば、患者に痛みがあるかどうか確認できた。3つ目は、患者が動くことを意識するチャンスを奪った、と。長い間、患者さんファーストだと思い込んでいた行為が、患者さんの可能性をつぶしていたことに、はっとしました。オーストラリアではそんなことの繰り返しでしたね」

保田さんは、病院内に組織された労働安全衛生(OHS)部門が、看護師の働く環境整備に貢献していることにも注目した。

「看護マネジャーが、利用者の背景はもちろん、私たちスタッフの背景も把握して、働く環境をマネジメントすることで、ケアの質の向上につながっていると実感しました。日本においても、こうしたマネジメントが必要なのではと思うようになりました」

▲リフトにはさまざまな種類があり、これは病院や介護施設でいつでもどこでも使える、移動式の床走行リフト

オーストラリアでの学びや経験を生かし
「ノーリフトを日本に普及しよう」と決意

保田さんは、オーストラリアの病院や介護施設を見学しながら、働く看護師たちに労働環境について聞いて回ったという。すると、口を揃えて熱く語られるのが「ノーリフト(腰痛予防プログラム)」のことだった。

「オーストラリアで「『日本では患者さんを持ち上げている』と話すと、たいてい『とんでもない』という反応が返ってきたので、ノーリフトが患者、看護師、介護職員にとってとても大切なことだということが分かってきました。当初はノーリフトにそんなに興味もなく、2005年に進んだ大学院での研究課題でも、『准看護師と看護師の働き方を通してOHSマネジメントを研究したい』と伝えたんです。ところが、教授から『今後の展開が見えている』と指摘され却下。そのとき、ノーリフトに対するオーストラリアと日本の違いを話したところ、『日本の看護OHSマネジメントにもつながる』と、研究課題として勧められたのです」

研究の一環で、ノーリフトの歴史をひもとくうち、オーストラリア看護連盟がキーになっていることが判明。ノーリフティングポリシーを作ったメンバーのひとりで、当時労働安全衛生部の責任者でもあったジャネット・サンドリーニさんにインタビューする機会を得た。

「大学院に通いながら、日本に一時帰国した際は、入浴看護師として訪問介護の仕事をしていましたが、今度は逆に日本のケアの在り方に疑問を持つようになっていました。ジャネットさんからは、オーストラリアでも昔は日本と同じように利用者を抱え上げていた歴史があり、長く議論されていたという経緯を聞きました。さらに、『知った人には責任があるのよ、覚えておいて』とも。そこで、『私が、日本にノーリフトを伝えよう』と決意したのです」

▲2008年7月の看護研修。ベッド上の介助ではスライディングシートなどを使う

ノーリフトとは、機器の導入が目的ではなく
知識やケア方法、文化を変えるための手法

2008年に帰国した保田さんは、ノーリフトを実践していた理学療法士の下元佳子さん、眞藤英恵さんらの協力を経て、2009年に日本ノーリフト®協会(2010年に一般社団法人化)を設立。試行錯誤する中、ノーリフトの国際フォーラムの開催を発案。オーストラリア看護連盟に協力をお願いしたところ、ジャネットさんの来日が決定し、オーストラリア総領事館、看護師協会、日本作業療法士協会、厚生労働省などの支援も得て、第1回日豪国際フォーラムを開催した。現在は、東京大学や聖路加国際大学、滋賀医科大学、神戸市などと連携し、セミナーや講演などの普及活動から、施設や病院のコンサルティングを通じた定着支援、腰痛関連の調査、介護ロボットや福祉用具の開発実証協力など、活動は多岐にわたる。

ノーリフト®とは、「看護・介護職の腰痛予防対策」をコンセプトとした「労働安全衛生マネジメント」のひとつと保田さんは言う。「リフトを使わない介助方法」や「リフト使用を推進する介護」と勘違いされがちだが、実際は「押さない・引かない・持ち上げない・ねじらない・運ばない」をキーワードとして「危険や苦痛を伴う、人力のみの移乗」を禁止し、「ケアされる人の自立度を考慮した福祉用具の使用による移乗」を行うための技術やポリシー、考え方のことだ。

「日本に帰国して、病院や介護施設に見学に行きましたが、福祉用具が導入されているところは少数、しかも導入されていても『手間が掛かる』『患者さん・利用者さんが嫌がるのではないか』と、ほとんど使用されていない状況でした。日本でなぜノーリフトが必要なのか、ということを広く理解してもらうため、オーストラリアのプログラムを参考に、日本版ノーリフトプログラムを東京大学のサポートを得て3年かけて作成しました。これは単に機器を導入するためのプログラムではなく、知識やケア方法、文化(慣習)を変えていくためのツールです」

▲2009年1月に最初の日豪国際フォーラム(兵庫県医師会館)が開催された

▲保田さんは著書やDVDでノーリフトを紹介。複数の専門誌でも特集されている

ノーリフト®の導入・定着のカギは
「小さな成功体験」を重ねること

ノーリフト®の考え方に興味を持ち、プログラム導入を希望する病院や介護施設、企業に対し、年に2、3施設のコンサルティングを実施した保田さん。看護師や介護職員からは「いままで意識していなかったが、腰痛の訴えがこんなにあることが分かった」という声が上がった。また、「ほとんど声を出すことがなかった利用者が、リフトで移乗したら笑顔で話してくれた」「スタンディングマシンを使って自分の足で立ったとき、久しぶりに窓の外が見たいとおっしゃった」などの声もあったという。

「実はそれが一番大切です。これまで正しいと思ってやってきた看護・介護をともすれば否定することになるので、なるべく短期間で、現場のスタッフが小さな成功体験を重ねることが定着のカギになります。ノーリフトの導入を目指す施設の看護師や介護職員さんはモチベーションが上がり、自分たちで勉強会を開くなど、少しずつ改善傾向が見られました」

コンサルティングを続ける中で、保田さんは「ノーリフトによって、腰痛だけでなく、ケアも変えられるのではないか」という考えに至る。2012年より腰痛予防対策にケアをプラスして、ノーリフトを「ノーリフトケア®」と表現するようになった。

▲セミナーや講演会を開き、ノーリフティングポリシーを日本に伝えている

介護現場の研究や、教育方法の検討を経て
日本の現場に合わせた養成講座をスタート

2015年、保田さんは、プログラムの内容を日本の現場に合わせたものに変更し、「日本版ノーリフトケアコーディネーター養成講座」をスタートさせた。腰痛予防対策の取り組みを科学的に検証する、東京大学大学院工学系研究科教授・淺間一教授のプロジェクト「JST RISTEX問題解決型サービス科学研究開発プログラム」にも参加。ケア技術の教育方法を科学的に検討・調査し、システム開発につなげた。

「日本の介護現場では、人に伝えなければいけない場面で、“ふわっと”つまりオノマトペ的に表現することが多く、伝える人によって差が出てしまうことが、この研究で分かりました」

この養成講座では、福祉用具や機器の使い方を教えるのではなく、知識を中心に、ベーシック、アドバンスと段階を踏んで指導する。3日間のベーシックは、基礎教育として、ノーリフトケア®の知識と技術を理解し、プロとしてどう働くかを考えるプログラムだ。4日間のアドバンスは、受講者がノーリフトケア®の指導者として現場スタッフに教えたり、地域住民に無料セミナー開催したりする。また、現場の課題を考えて、課題をクリアするためのターゲットは誰なのか、あるいは組織にどのような仕組みが必要なのかをグループワークすることもある。アドバンスは、施設管理者や地域を巻き込みながら現場の意識変革を推進していくことを前提にしたプログラムとなっている。

▲日本版ノーリフトケア®コーディネーター養成講座の受講風景

資格取得者が増え、全国的に支部を展開
協会全体としてノーリフトの普及を目指す

「日本版ノーリフトケア®コーディネーター養成講座」の受講者は、看護師、介護職員はもちろん、医療法人や企業のトップ、一般の方までと多岐にわたる。資格認定を受けたノーリフトケア®コーディネーターは141名。各エリアに増えてきたことから全国に支部を立ち上げており、その数5つだ(2018年3月現在)。

「専門職が多いので、いつまでも教えられる側でなく、自分たちで地域を考え、支部としての運営していくことも重要なので、支部にベーシックの養成講座を任せたり、セミナーを依頼したり、地域での普及を目指して自治体や企業との連携を図ったりと、彼らの活動の幅を広げるべく、いろんなつながりを模索しています。また、いままでは個人にのみ与えていた資格を、今年からは法人会員枠も開設し、今後は施設単位での認定も検討しています」

2017年からは、厚生労働省、中央労働災害防止協会と共に「腰痛予防対策指針全国セミナー」を全国47都道府県で開催した。また、2020年にはノーリフト®国際フォーラムを開催する予定だ。

「ノーリフトが普及すれば、ケアの質や、看護師や介護職員のモチベーションが向上して、人材不足の解消にもつながるでしょう。社会的に見れば、社会保障費の抑制にも。なので、介護業界だけではなく国としても、ノーリフトにもっと目を向けていただきたいですね。私自身は、ノーリフトをツールとして、支部のメンバーやケアに関わる人たちを支援していきたいと考えています。具体的には、看護や介護に携わる人がプロとして活躍することでケアが変わり、地域で専門職が活動することができ、それにともない業界の地位が向上し、収入もアップするなど、働きやすい環境づくりに貢献できればと。そのために、今後も全国で活動するメンバーと一緒に普及に取り組みたいと思っています」

▲日本版ノーリフトケア®コーディネーター養成講座のテキスト。ベーシック、アドバンスごとに修了証を授与、ノーリフトケア®コーディネーターとして資格認定される

【文: 高村多見子 写真: 川谷信太郎】

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