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ヘルプマン

2013.09.27 UP

秩序が解体されていく快感 いい介護の現場とインドは似ている!

介護職とは、自分の個性や特技、ときには性別までを武器にできる仕事。そこの介護の面白さがあると話すのは、生活とリハビリ研究所代表の三好春樹さんです。「明日どう生きるか」より、あるがままの自分で「今ここでできることで勝負しよう」「今ある武器で勝負しよう」という三好さんに、介護の現場で大切にしていることを教えてもらいました。 (※この記事は2012年以前のもので、個人の所属・仕事内容などは現在と異なる場合があります)

12回目の転職で
見たこともない世界と出会った

高校中退後、パチンコ店スタッフ、家具の販売、書店の店員、化学工場の下請け、運送会社の配達などそれこそ職を転々としました。12回目の転職で出会ったのが、広島の特別養護老人ホーム「清鈴園」。

僕は核家族の一人っ子だから老人のことはまったく知らずに育ちました。生まれて初めて脳卒中や認知症の老人たちに囲まれて、「こんな面白い世界があったのか」としばらくは興奮状態でしたね。老人たちの多くは病院から施設にやって来ます。はじめはみんなオムツをして、床ずれを抱え、とろんとした目をしている。それが4、5ヵ月もすると、オムツは外れるし、目の焦点が合ってしっかりしてくるし、笑顔まで出るようになります。それが不思議でしようがなかった。その秘密を知りたくて、周りをつぶさに観察し始めました。当時、施設の介護職は「寮母」と言われる女性が中心で、もちろん資格もない。若造の僕から見ればみんなただの“お節介おばさん”。とにかく目の前に困った人がいると放っておかない。例えばある認知症の男性は、物は投げる、引っ掻く、唾を吐くという問題行動のある人で病院も手を焼く存在でした。

しかし、寮母たちの手にかかると、半年で落ち着いて施設の人気者になってしまった。理由を寮母たちに聞くと、顔を見合わせて「あれは担当の寮母が好みのタイプだったからよ~」と笑い飛ばすんです。これを聞いた時「介護って深いし、広い!」と思った。医療ではどうしようもなかった人に対して、専門性じゃなく人間同士、生き物同士、時には性別までを武器にしてかかわれる仕事が介護なのだと知ったのです。

資格より資質。
人との関係性こそが仕事になる

医療は99人を診て統計的に分析し、100人目も同じ症状ならこうだろうという判断を下しますが、介護だとそうはいかない。

99人が同じ方法でだめだったとしても、100人目はその方法が通用したりする。その理由は肉体的な障害はあくまで一部で、人生観や環境が全員違うので、いろんなアプローチが可能だからです。「介護とは生活の専門家」と僕が言うゆえんです。でもそもそも、生活に専門領域なんて存在しないし、さらにそこに個人の幸せとは何かまで入ってくると、はなから医療の専門家にはお手上げですよね。

介護の仕事は突き詰めていくと、何か専門的な能力で相手の問題点を治して、それから人間関係をプラスするというよりも、相手と自分の間に関係を結び、それによって相手の心を左右することがより重要になります。そこには科学とか法則性はありません。1人ひとりと向き合い、自分の創造力を働かせて短編小説とまでは言わないけれど、エピソードを積み重ねていくこと。そのエピソードというデータの蓄積こそが、実は介護の専門性なんだと思います。

属性で言うなら文系でもあり、理系でもある。就職したその日から老人と仲良くなれる人もいるし、資格があっても現場じゃ型通りにいかなくて悩む人もいます。経営側も資格がない人は採用しないという施設もあれば、「この人、介護に関する資格は何もないけど、なんか周りが元気になるから主任を任せています」という施設もある。後者の方が、道理に叶っていると僕は思いますね。

「3K」なんて言うのは
介護の仕事しか知らない人

僕が考える介護の魅力の「3K」について話しましょう。

最初に「感動」があります。孤独で生きていくことさえ止めようとしていた老人が、「もう一度この身体で生活していこう」と目を輝かせる現場に立ち会える喜びです。

次に「健康」。介護職は1日働けば運動量は充分。施設職員は、1日1万歩は歩くからメタボになる暇なんてありません。

最後に「工夫」。介護者は老人を目の前にしてまず感じる。老人の声を聴く。意味のない言葉でもその口調を感じ取る。五感だけでなく第六感まで含めて感じ取り、接し方を考えないといけない。他人が立てたケアプランどおりにやるだけでは介護とは言えない。ケアプランは仮説の一つだと思えばいい。こんなふうに工夫ができて、やればやるほど自分が豊かになる仕事は、世の中にあまり残されていないんじゃないかな。

世の中は効率優先の方向にどんどんシフトしていて、工夫の余地などなく、しかも労働条件が厳しい仕事なんてザラです。介護が(悪い意味の)3Kだなんて甘えているのは、介護の仕事しか知らない人。確かに生産性もISOも大事かもしれない。でも、本来クリエイティブな介護をわざわざ「作業」にしてしまってはいけない、そう僕は思いますね。

いい介護の現場はインドに似ている

僕は数年前からインドツアーを企画し、介護業界の若手らに「介護職よ、インドに行こう!」と呼びかけています。インドに行くと秩序化された精神や体が解体されていくような快感があります。街中で象が荷物を運んでいたり、野良牛が普通に歩いていたり。車も車線がなくて運転手同士の阿吽の呼吸で追い越しや車線変更が行われ、横断歩道もめったにないから人々はクラクションを鳴らされながらゆっくり車道を渡る。ガンジス河で沐浴しているすぐ脇には死体焼場があり、死にそうな人がそこらへんで寝ている。街中には自分の障害を見世物にする人や物乞いが立っている。

日本はどうでしょう?

ホームレスは連行され、老人や障害者は施設で暮らし、孤独死は後を絶たない。
老いも、障害も、貧乏も、まったく見えにくくなっている。それを我々は「近代」と呼んでいるけれど、インドに来ると見える方がまともじゃないかと思えてくる。

いい介護の現場はどことなくインドに似ています。
融通無碍(ゆうずうむげ:考え方や行動が何物にもとらわれず自由でのびのびしていること)で、ルールなど決めずに、その場その場でベストな方法を考えていくくらいでちょうどいいんです。

介護のプロとは「黒子」

困ったことによく「私がいなきゃあのおじいちゃん、生きていけないんです」と自分が置かれた状況を喜ぶヘルパーがいます。在宅訪問して「私が行くと喜んでくれるんです」って。

僕はそういう時は、「それじゃ駄目だよ。他に誰も行ってないから喜んでくれるだけなんだから」と釘を差します。そうではなくて毎日違う人が通って、「私がいなくても構わない」という状況をつくるのがプロの介護職。自分が介護をしていること自体に意味を感じて、その結果、老人がどうなるかには興味がない人。こういう人は長続きしません。一方で、単に食事ケアや排泄ケアの技術を磨きさえすればいいと思っている人もいる。でも、どんなに技術が上手くても、結果的に本人が生きていたくないと思うようなケアも、駄目です。

下手でも知識がなくてもいいから、とにかく老人が「生きていこう」という気持ちになってくれるようなケアが良いケアなんです。

介護っていうのは、それくらいの力がある。介護は弱い立場にある高齢者にとっての「杖」であり、彼らを陰で支える「黒子」です。ここが医療や看護とはもっとも違う点であり、介護の仕事の奥深さもそこにあるのです。講演活動で全国を精力的に飛び回る

「生きていこう」と思える
リハビリを目指して

僕が介護に携わる人すべてに提起しているのが「生活リハビリ」。

これは、「食べる」「入浴する」などふだんの主体的で自発的な生活行為の中に、専門的なリハビリを解体していくこと。これなら誰にでも実行可能です。ある意味、医療的なリハビリの専門性の否定とも言えます。「生活リハビリ」は日常生活を活性化することで、医療的なリハビリが必要のない状態を目指します。僕は若い理学療法士(※註)によくこう言います。「脳卒中で倒れた男性が、初めて訓練室で立つときには、理学療法士が立たせては駄目。これから介護していく家族に任せろ」と。脳卒中で倒れた人って不思議なことに、意識が回復した時より、平行棒につかまって初めて「ああ、生き返った」と実感するんです。

だから、家族に立たせてもらう方が絶対いい。医者や理学療法士が「命の恩人」になるより、これからずっと介護していく家族がそうなったほうが「お前が命の恩人だ」となり、喜んで家に帰れます。家族を頼りに翌日からの生活を「生きていこう」と思える、そのベクトルが大切なんです。

※身体に障害のある人に対して運動療法や物理療法などを用いて、自立した日常生活が送れるよう支援する医学的リハビリテーションの専門職

生活や人間というのは
曖昧さの固まり

世の中なんでも白か黒かをつけたがる世界が広がってきています。
でも、介護の世界って曖昧なんですよ。老人も、日常も、みんな曖昧。
論理も一貫性もないし、遠近感もないのが介護の世界。

現実は0か1かじゃなくて、その人に合わせて全部介護方法を変えなきゃいけないんですよ。
そこには創造力が要るわけです。病気の時は寝たきりで、よくなったら即自立。そんな人はいません。真ん中みたいな人ばかり。

だからその人が大体どういう状態かを、まず見極めることからやらないといけない。病気ならどの薬が効いたか、どの治療が効いたのかを1つに絞ってやるわけだけど、生活ってのはそういうもんじゃない。これかもしれない、いやこれかもしれない、ひょっとしたらこれかもしれない。ええい、3つ全部やっちゃえとなって、結果としてよくなったら、どれかが効いたということ。それが残った力を生かすということなんです。

生活や人間ってのは曖昧さの固まり。だからこそ、そこに真正面から向き合って、創造力を生かせる介護の仕事は面白いんです。

今できること、今ある武器で勝負しろ

医療関係者は、「リハビリしてもっとよくなりましょう」ってよく言います。

でもそれってリハビリを受ける老人からしたら、あるがままの現在の自分を認められていない状態なんです。「このままでいいよ」という肯定がないのに、明日が明日がってみんなが言うんですよね。だから僕は今日を活き活きさせようよって言いたい。介護に限らず、専門分野でも、若者全般にも通じることなんだけど、みんな「もっと勉強してから」「資格をとってから」「いつか将来は」って言う。

そんなことよりいまここでできることをやらないと駄目だぜって。今の若い人達は就職難だし、世の中に適用しなきゃって必死に就職活動とかやってるけど、本当にその会社で働きたいの?って思う。世の中に適用して奴隷みたいになることもないし、ホームレスにもならないって道があると思うし、そのひとつが介護だと思うんです。

あるがままの自分で「今ここでできることで勝負しよう」「今ある武器で勝負しよう」というのは介護にかかわらず、これからの生き方なのかもしれませんね。

【文: 高山 淳 写真: 山田 彰一】

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