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2016.04.27 UP
江戸川区内のさまざまな介護事業所で働く職員が集まって結成された劇団がある。その名は「たなごころ」。2011年11月の結成以来、毎年数回の公演を行っている。劇団員に共通する思いは、「芝居を通じて介護の仕事はやりがいに満ちているというメッセージを伝えたい」ということ。その思いは着実に広まり、他区からの公演依頼も舞い込むようになって、2016年は前半だけですでに3回も上演。そんな劇団の誕生の経緯や介護劇にかける思いを、座長の齋藤惠輝さんや劇団員の方に伺った。
芝居には必ず“笑い”の
要素を取り入れる
ステージの中央部、車いすに乗った礼服姿の初老の夫と、留袖を着た妻。舞台は、その夫婦の息子の結婚披露宴という設定で、最後に花婿の父親としてあいさつをするシーン。夫は麻痺している右半身をかばいつつ、全身に力をみなぎらせて立ち上がった。そして、懐から紙を取り出し、あいさつを始める。
「――私は脳梗塞で右半身が麻痺し、心がふさいで何もやる気が起きず、周囲に当たり散らしていました。そんなときに、デイサービスの職員が言ってくれた『あなたにはやりたいことがないのか』という言葉で目が覚めたのです。私は、息子の結婚式で立ってあいさつをすることが目標となって、リハビリに励むことができました――」
スピーチが終わると、観客はあたかも披露宴の列席者のような感覚に駆られたのか、大きな拍手が起こる。涙を流している観客も少なくない。江戸川介護劇団「たなごころ」の介護劇『おめでとう~せめて父親らしく~』のハイライトシーン。本作品は同劇団の旗揚げ公演以来、これまで4回上演している自信作だ。
「この芝居は、私たちが働いていたデイサービスで実際にあったことを脚色して劇にしています。他に4作ほどありますが、いずれも実話がベース。どの作品も“笑い”の要素を取り入れるようにしています。とにかくお客さまに楽しんでいただきたいという思いがあるからです」▲「介護職の“3Kイメージ”を変えていきたい」と座長の齋藤惠輝さん。上演作品には、認知症の母親に手をかけた息子が裁判を受けるというシリアスなストーリーもあるが、必ず“笑い”を入れて観客が楽しめるように工夫しているという
区からの依頼も舞い込み
上演数が急増
舞台に並ぶ役者たちは、江戸川区内の約40カ所の介護施設などで働く介護職員が中心。施設長、介護スタッフ、ケアマネジャー、看護師、理学療法士、施設経営者、福祉用具相談員、サービス提供責任者、ソーシャルワーカー、成年後見人、そして介護シンガーなどまで多種多彩だ。
劇団名の「たなごころ(掌)」とは、「手の心」の意味。
「手は非言語コミュニケーションのツールのひとつですが、私たち介護福祉職にとっては特に重要です。劇団活動を通じて、介護現場と地域、事業所間の交流など、人と人をつなぐ橋渡しの役割を担いたいという思いも込めています」
公演は、介護に関するシンポジウムや学術大会、展示会、市民講座といったイベントで上演している。したがって、観客は要支援者や要介護者である本人やその家族、介護業界関係者が多いが、同劇団では、チラシを作成して幅広く告知も行っている。公演エリアについては、当初、江戸川区内がほとんどだったが、最近は他区からの依頼も舞い込むようになったという。
「最近は、私たちの芝居をメインプログラムとする介護系イベントでの上演依頼が増えてきました。同時に、私たちの芝居を観た江戸川区外の職員や介護関係者の方々から『ぜひうちの区でもやってほしい』との要望も増えています。おかげさまで上演数が急増しており、うれしい悲鳴をあげているところです」▲介護劇団「たなごころ」公演の案内チラシ。評判が広まり、年2~3回だった公演が、2016年には5回に急増した
「みんなで楽しいことをやろう」が
劇団結成の動機
「たなごころ」が結成される母体となったのは、江戸川区中央部の介護事業所で働く職員たちによる「通所連絡会」だ。同会は、現在、浦安市新浦安駅前地域包括支援センターのセンター長を務めている富永文彦さんが発起人となって、2005年にスタートした。
「忙しい介護職員は、自分の介護事業所に閉じこもってしまいがち。そして正解や不正解という概念のない介護の世界で、どの職員も同じように『あのときはこうすればよかった』『もっといい方法はなかったのか?』と、仕事の悩みやジレンマを感じて日々、闘っているわけです。異なる事業所で働くそんな職員同士が集まって、情報交換やアドバイスをし合ったり、励まし合うことができれば、もっと仕事が充実するのではないかと思い立ったのが通所連絡会を始めた動機でした」(富永さん)
当初、数事業所の4~5人の職員で始まった通所連絡会は、6年ほど活動を続け、40事業所の50人ほどが入れ代わり立ち代わり参加するようになっていた。そんな2011年の中ごろのこと。富永さんは会合の場で「ここにいる介護職員だけで、劇でもやりたいね」と呼びかけたのだ。
「私は演劇や映画などのエンターテインメントが好きで、みんなで楽しいことをやるのも大好きなんです(笑)。そこで、せっかくこれだけの職員が団結しているのだから、みんなで劇でもやったら面白いんじゃないかと思っていました。齋藤さんが元役者だと聞いて、ならば最適だと。全て任せることにしました」(富永さん)▲モットーは“明るく楽しく元気よく”という富永文彦さん。劇団結成の呼びかけに、真っ先に反応したのが、現座長の齋藤さんだった
座長、脚本、役者、舞台監督…
個性や得意を生かす作品づくり
「たなごころ」が結成され、齋藤さんが座長に就任すると、十数人が参加を表明する。その後の活動を経て次第にメンバーが増え、現在では約50人の劇団となった。
「結成した当初は、みんな『演劇なんてできません!』って言うのですが、練習中に乗ってくると集中力がすごいんです(笑)。もともと、介護職には役者の要素があるからだと思います。施設では、日々レクリエーションをやっていますし、認知症の方の世界に入って、様々な役柄をを演じることも少なくありませんから」(齋藤さん)
副座長で脚本を担当するのは、医療法人自靖会の業務執行グループ部長で理学療法士の川畑公宏さん。川畑さんも、もともと演劇には関心が高く、出身地の鹿児島で理学療法士として働いていた時代から、辛いリハビリの指導を劇に仕立てて、利用者に親しみやすく伝えていたという。
「脚本は、劇団員と話し合いながらストーリーを固めた上で制作します。メンバーには音楽業界出身者もいて、劇中のBGMを担当しています。それぞれが得意分野を生かしていますね。私が役者として舞台に出るときは、なぜか“女形”が多いです(笑)」(川畑さん)▲脚本と役者も担当する副座長の川畑公宏さん舞台監督を務めるのは、介護施設の管理職である野村尚紀さん。取材には同席できなかった野村さんに代わり、社会福祉法人江戸川区社会福祉協議会の相談員で社会福祉士の水沼百合子さんが、劇団参加の経緯を説明する。
「野村さんも映画が好きで、自ら小説も書くという方。そこで、気になって練習の様子を見にきてみたら、みんなの練習ぶりに感化されたと。それまでは学芸会レベルだと思っていたようです(笑)。自ずと真剣に関わってくださるようになり、いつの間にか演出家的な存在になっていました。常に鋭い視線と冷静なコメントで、つい熱くなって暴走しがちな役者たちの手綱を引いてくれています」(水沼さん)▲劇団の事務局役を務める水沼百合子さん
劇団の活動を軸に広がる
ネットワークも醍醐味
「たなごころ」としての活動は、毎月の「通所連絡会」以外は不定期。練習などで集まるのも、仕事が終わった夜19時以降だ。それでも時間通りに集まることはなく、毎回メンバーも違うという。同じ演目でも、演じる役者が異なることも多いため、必然的に違うテイストになる。そんな「たなごころ」の活動を、メンバーは心の底から楽しんでいる。全員の思いは一つだ。
「介護というと、きつい、汚い、給料が安いの3K仕事というイメージを持つ方が多いと思います。そのせいか離職者も多く、どの事業所も人手不足に悩まされています。また、“ビジネス”と“情”のはざまにあるこの業界は、利用者さんのためになりたいという思いが強ければ強いほど、ジレンマに陥ることも少なくありません。しかし、いい面もたくさんある。人生の大先輩に関わらせていただくことは、お金には代えられない財産となります。また日々、いろいろな出会い、発見、感動があります。私たちは全員、この仕事を楽しんでいますし、やりがいを感じています。また笑いもあるんです。ですから、介護をエンターテインメントにして、そんな私たちの思いを伝えていけたらと考えているわけです」(齋藤さん)
「ただし、私たちの考えを押し付けるようなことは絶対にしません。身近にある介護について、少しでも何かを感じてもらえれば、という思いでやっています」(川畑さん)
そして何よりも、芝居を作るメンバー自身の充実感が大きいのだ。
「舞台が終わったときの達成感は半端ないです(笑)。さらに、この活動がきっかけとなってメンバーが増えていくことも醍醐味ですね」(齋藤さん)
メンバーは、それぞれの職場をベースにそれぞれがネットワークづくりに励み、その輪は拡大の一途だという。「たなごころ」はネットワーク同士を繋ぐ“ハブ”の機能も発揮しているのだ。日本全国には、似たような活動をしている団体も少なくない。劇や音楽、美術などの手段で介護の素晴らしさを伝えようとしている人々がたくさんいるという。
「夢は、地域や分野の垣根を越えて、同様な仲間が集まり『介護アートフェスティバル』を開催することです。介護職が自らの手で介護の魅力を発信する機会が今後も増えていくといいな、と思っています」
と齋藤さんは目を輝かせる。▲演劇『私お先にゆきますわ』のラストシーン。手前の左が齋藤さん、右が川畑さん
【文: 髙橋光二 写真: 阪巻正志】